朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

六月の薔薇

 

 

昨日はインターネットの人と会った。

最近インターネットの人と出会うことが多い。わたしがそういう機会を多く求めているからだ。

といっても、いわゆる出会い系SNSは利用せずニュートラルにツイッター経由で、フォローしている人を中心に、個別に会う約束をしたりイベントに出かけたりして「会ったことのない人」に会いに行く。

 

出会うことのインパクトについてよく考える。

インターネットを通じて出会った人たちと顔を合わせる時、二度目の出会い。このインパクトはいつまで経ってもものすごく不思議で強烈だ。

初めてインターネットの人に会った時のことを覚えている。中学1年生の時、札幌駅でひとつ歳上の女の子と会った。個人のサイトで文章を書く人だった。その人の文章は、畳の上に置かれた蜜柑のように素朴だった気がする。

 

時は流れ、ツイッター時代。

一時期趣味だったスポーツ競技を通じ、同じく東京で競技をプレイする人たちに会ったり、同じ大学に通う人たちに会ったり。顔は知らないけれど、どことなく所属の透ける 輪郭のある人たちと会うことは、いつしかわたしの中で日常になっていった。

中学、高校では友達が自分以外に向けた言葉を読む機会なんて卒業メッセージ以外になかったので、ツイッターが流行りだした頃は身近な人たちの書く文章をそれこそ貪るように読んだ。今思えばとりとめのない、中身の薄い文章でも、当時は物珍しくわたしにとって価値のある文章だった。他人の心を代弁する言葉たち。

 

大学に入り、言葉から出会った人たちと向かい合った時、わたしに衝撃を与えたのは、言葉が人の顔を持ち服を着て歩いている、という浮世離れした当たり前だった。

          言葉が人の輪郭を紡ぐ。

その究極体は去年の秋、雨の四谷駅に姿を見せた。素性の知らない知人に初めて出会った月曜の夜。

全身黒い服を着た男の人は、慣れ親しんでいるはずの言葉を知らない声で喋る。わたしはその人の言葉を知っているはずなのに、うまく思い出すことができない。

ウィスキーの海に浮かぶロック氷が溶けるようにゆっくりと、しかし着実に、わたしはその人の輪郭と言葉とが乖離していないことを受け入れていった。

 

海外旅行に目覚めた人が休暇のたびにフライトを予約するように、その後は積極的にインターネットの人たちに会うチャンスを拓いていった。

 

冒頭に戻る。

昨日会った女の子とは、まだお互いフォローしてから日が浅く、余白の多い関係だった。名前は連絡先アプリを交換した時に知った。同時にこちらの名前も知られたが、わたしの方は少し嘘をついている。

自分の名前はごくありふれた漢字を使用する、けど一発で読み方を当てることのできない類いのものだ。相手が最初に読みを間違えたのが何となくおもしろくて、そのまま訂正せずにいる。自分では少し狡いと思っている。

 

会うことになった経緯は省くが、話はとんとんと進み約束の日曜日。今週は梅雨が始まった。

信じられないことに、わたしは1時間も遅刻して待ち合わせの駅に到着した。時刻を1時間きっかり勘違いしていたのだ。

本心は分からないけれど待ち合わせた相手はわたしの遅刻に寛容で、わたしたちは何事も無かったかのように事前に行くことを決めていたデリに向かった。

初めて人と会う時にどこをミーティングポイントとするかは、わりあい個人の性格や趣向が反映されると思う。彼女が池袋のそばに住んでいる事がわかったので、山手線沿いの駅の中でもわたしが慣れ親しんでいる閑静なエリア(特別な用事がない限り、降りることはあまりないかもしれない)を提案した。

相手はそれに関して反対しなかったので、行ったことのある店に連れて行くことになった。料理もドリンクも美味しい、お洒落な秘密基地みたいな雰囲気のいい店だ。レモネードが美味しかった。

パスタをフォークに巻きつけながらわたしたちは主に映画の話をした。彼女の今観ている映画はアメリ、おすすめの映画は(500)日のサマーだそうだ。シェルブールの雨傘を勧めておいた。

 

コミュニケーションは相手ありきなので話し相手によって比率は変わるものの、わたしは基本的に相手より喋る方だ。すごく親しくならない限り、空白を埋めるかのように言葉を発し続ける。焦ってそうなるというよりは単純に特性だと思う。

その女の子は特段自分の話をするのが上手いわけではなさそうだったので(相槌はかなりスマートだった)、わたしの方が多めに喋った。話し上手でなければいけないとは思わない。

 

食事を終えたあと、徒歩圏内にある二つの庭園からひとつを選択してもらって(と書いたが、結果的にわたしが自分の意見を通したようなものだ)傘を開き、移動した。その庭園に足を運ぶのは初めてだったけれど、歩き慣れた町なので迷うことなく目的地まで辿り着いた。

150円のチケット代を払って(値段の割に見応えがあるのでかなり穴場だと思う)入場する。小雨でも開花シーズンなのでそこそこ人がいる。アジア人旅行客の比率も高い。

 

和洋折衷の施設内で、この時期一番の目玉は西洋庭園に整えられている薔薇だ。様々な銘柄の華やかな観賞用植物は、美術館の展示物のように規則正しく配置されている。

インターネットの女の子は、日本庭園ゾーンの茶室に興味があるようだったので、観光客向けの簡易的な茶席に参加することにした。女子校時代の文化祭、クラスメートと行った茶道室を思い出す。

形式こそ簡略化されているものの 茶会のための機能に特化した空間は、教育施設の一角である和室とはまったく異なる効果を生み出す装置だった。

小上がりで靴を揃え、先に寛いでいた老夫婦と同じように部屋の中央の空白を囲むように座る。襖の向こうから女性が現れ、慣れた仕草で抹茶と和三盆を出してくれた。後から男性がひとりやって来て、わたしたちの右手 入り口に面した一角に座った。

床の間に目をやると、小ぶりの青い美濃焼の壺と掛け軸がある。書画には 一期一会 とあった。

嫌いな四字熟語であっても相応わしい文脈において目にすれば、気の利いた言葉らしく受け取れるのだなと感心した。

 

わたしがインターネットの人と会うのは、多分一期一会で終わらせたくないからなのだ。ランダムに同じ場所を訪れ、顔を合わせる人たちは東京に住んでいれば1日でも幾千と存在する。縁よりも薄い偶然が、すれ違う人々の間をゆるやかに流動している。

出会ったことに意味を与えるのはいつだって自分と相手の意志だ。

星の王子さまに出てくる気の強い薔薇は、王子にとって唯一の存在だ。無数の同じような薔薇たちに出会った後であっても。なぜならその薔薇は、王子が愛と時間という目には見えない資産を費やした唯一の対象だから。

 

庭園の薔薇たちは雫をまとい光っていた。水滴の重みにかしづき、優しく花弁を開いた花たちの姿はとても忘れがたい。手入れをした誰かの時間と愛は、彼女たちを目にする者にも届く。