朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

共同体の記憶

 

 

幽霊ってどういう存在だと思いますか?

 

実体の無い体 でも確かに存在する何か

まやかしと取るか リアルと捉えるか

 

幽霊という言葉を聞いた時、どうしてもホラー的なイメージが先行してしまうけれど、この言葉自体は形のないものを表す時にも使用されますね。

 

また、幽霊というと、かつて生きていた人が死後に移るフェーズと取ることもできます。科学的な言説を無視した場合。

 

 

わたしは今、共同体の幽霊について考えています。幽霊になったかつての共同体というべきかな。

つまり、ある時期確かに存在していたコミュニティが何らかの事情を経て形骸化、または終焉を迎えたあとの廃墟に思いを馳せているわけです。

 

人がいた部屋、機能していた身体 から抜け出た魂たちの行方はそれぞれまちまちで、終わるとき、わたしたちはさよならを言います。

さようならば仕方があるまい。ここで別れと致しましょう。そうして空っぽになったハードウェアーである部屋は、意味を消失したわけですが、絆として、関係性というソフトウェアーは残ります。(全てが残り続けることはないですが)

 

幽霊はソフトウェアーなんじゃないかな。だからとりつくことができる。と広く考えられている。

どこでも生きていける。この表現は変ですが。

 

だから、一旦幽霊になってしまえばチートなんです。幽霊になることができるか、がポイント。

幼馴染とか、異なる進路を選んだ仲のいい同級生は共同体の幽霊であることが多い気がします。

 

ここからはわたしの話です。

 

 

 

 

 

遠い国の廃墟に住む幽霊

 

留学先で出会った人たちの何人かは、共同体の幽霊としてまだ存在し続けている。わたしのそばに。わたしの中に。

母語の通じる同じ国籍の人以上に、お互いの母語の通じない異なる国籍の人たちの存在は、ある意味で熾烈だ。言葉の通じなさは、原始的なコミュニケーションを発生させる。

わたしは日本人の子たち以上に他の国の子を抱きしめ、手を握り言葉にできない思いを伝えた。触れること。原体験。

 

手を繋いでいる時、体温を認めあう相手のことを意識せざるを得ない。その つめたい・あたたかいという認識は双方で異なり、感覚が交わることはない。わたしの気持ちがあなたに伝わることもない。でも伝播する熱やひんやりとした柔らかさは確実に何かを物語っている。

 

そうやって手を繋いできた人たちとは、お互いの体が手を離すことを決めた後でも、お互いにとっての幽霊になることができるとわたしはどこかで信じている。

どこでも生きていける。

 

 

幻想に縋り付くなんてみっともないと眉をひそめる人もいることでしょう。離れてなお心が引かれるなんて、見様によっては救いがなく悲劇的かもしれない。

 

ただ、目に見えないものの方が強く、熱く、濃く、深く、堅いこともある。そしてわたしは、その強度を信じ、幽霊たちを心の中に住まわせていたいと思うのだ。