朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

機内持ち込み禁止

 

乗った便にB席がなくて焦る。上空のオフライン環境でブログを書いている。目的地の空港で父と待ち合わせている。


遷延性意識障害。父の母親、私の祖母がいわゆる植物状態に入ってから半年が経過した。私が彼女に会いに行くのは叔母の葬儀以来だから、もう一年以上顔を見ていない。

就職活動、短期の語学留学プログラム、資格試験の勉強、塾の冬期講習と、あれこれ言い訳を立てて家族でただ一人、これから向かう私立の療養施設に足を運ぶ機会を先延ばしにしてきた。私があえて寝たきりになった祖母を避けてきたのには、一応理由がある。

第一に、私は今の祖母の状態を「見舞う」対象だと捉えていない。言葉の届かない、指先すら自分の意思で動かせない、これからも永遠にそうすることのできなくなった相手とどう向き合えばいいか、未だによくわからない。

第二に、今の父方の親戚関係は悪化している。祖母の危篤とその後の延命手術という手続きにより、私の両親はそれなりに奔走したのだが、祖父の傍若無人の振る舞いに父以外は皆辟易している。父が心身を削って祖父のために動いているのを見るのもつらい。兎角政治的理由により、私と祖母という一対一の個人的な面会は叶う事がない。どうせ今日も一人にさせてもらう時間はない。


私は叔母の病と死を垣間見た時、親族のそれが如何に不条理な世界観を以って私という肉体に差し迫ってくるかを知った。その衝撃と向き合う姿を同席者に観察される不可避の客体性を学んだ。近いとも遠いとも言えぬ血縁が、結局は抜けることを許されないコミュニティーとして機能しているのを肌で痛いほど感じた。


最近まで意識にのぼることのなかった家父長制度や嫁という社会的身分などについて考えざるを得ない日々、安楽死をテーマに取り上げたSF小説を脇目も振らず読み終える。炎上しているらしいその筆者の安楽死推進論は、倫理という要素を全く抜きに語れば理にかなっているとも言えた。その記事を通じ、積極的安楽死と消極的安楽死という2つのカテゴライズを知った。日本で現在認められているのは消極的安楽死のみということも。


私の祖母は生前(と言う不正確な言い方を許してほしい)、もしも倒れて手術をすれば延命できるということになったとしても手術を選びたくない、その時は延命処置を取らないでほしいと言っていたそうだ。これは母から聞いたことだが、その事実を知っていたはずの一親等はその遺言(という表現をどうか許してほしい)を破り、自己判断で救急隊の延命処置施術に同意した。

一度延命をしてしまえば、途中で何らかの例外的事象が発生しない限り、延命行為を打ち切ることは出来ない。植物状態は良くも悪くも安定したフェーズだ。2019年1月現在の法律では、医者や家族が投薬等を辞めてしまえば犯罪になると聞かされた。例外もあるらしいので参考にリンクを貼っておく。

https://www.news-postseven.com/archives/20170210_491122.html?PAGE=1#container

今の祖母は生かすことも殺すこともできない、長い直線上に身を置いている。尊厳死。その選択肢があるにせよ、ないにせよ、私個人が意見を表明するタイミングはきっと訪れない。