小さな部屋の中で夏の薄掛けに包まっているとだんだんひとりであるような気がしてくる。喉の奥が詰まって苦しい。
寝ていられないほどになったので、まだ半分眠ったままの町に自転車で出ることにした。
家から歩いて行ける距離に大きな河川とそれに沿って土手がある。小学校の時に全校歩く会とかいうイベントでも歩かされた。全校歩かされる会。
留学していた大学は緑の多いキャンパスで、寮の近くは少し近所の河川敷に似ていた。なのでここに来ると昔の記憶が呼応して少し気分が晴れる。
錆びたライトグリーンの車体を漕いでいると左手に流れる芝生の緑が目に心地よい。ひんやりした風が柔らかに頬を撫でる。
舗装されたゆるやかな斜面をくだり、自転車を止めて川のそばまで行く。ちょうど日が昇る時間帯だ。
朝露に濡れた短い雑草の海を横切って背の高い植物のそばに行くと濃い緑の匂いが鼻を刺す。川のもたらす生命力を感じる。それらの生け垣越しに水面を見つめているとなんだか胸がいっぱいになった。私は川が好きだ。
靴に染み込む水分を感じながら湿地の真ん中辺りに立つと自分の小さな身体を意識した。壁のない広大な空間。高い空の上でカラスの鳴く声が聴こえた。
自然は人の感情にかなりの影響を及ぼすと私は考えている。なんてことないように思える天気ですら、一日の またはその時期の心情を左右し、私たち人間はコントロールされていると感じざるを得ない。
しかし自転車を再度走らせながら思ったのは、慰めのようなものを与えてくれるのも自然であるということ。ワーズワースもそんなことを言っていた気がする。ロマン派の詩人たちはなぜか揃って自然の力を信仰する。
近所に、それなりに名の通る寺がある。私の散歩圏内のもうひとつの目玉だ。早朝は人影がまばらで、ついでなので参拝してから帰ることにしようと思った。
手水舎で指を清めた後、財布から銀の硬貨を取り出して移動する。本堂が開放されていたので、階段の手前に置き据えられた簡易的な木製賽銭箱ではなく登った先の青銅製の方に入れることにした。靴を傍に揃えて脱ぎ、少し湿った靴下で畳の階段を上がると、目線は自ずと本堂の正面の暗がりに行く。神社とちがい、寺にはその暗がりの先に金色の仏像が安置されている。
賽銭箱の前に立って合掌する。目を瞑るとまた悲しみが降りてきた。目を閉じたまま、少し長めに手を合わせたら落ち着いた。目を開き、なんとなく中を覗くと参拝客も関係者もいない。
勝手に入っていいのかなと迷いつつ、他の国の仏教建築はかなりオープンに人が出入りしていたことを思い出して中に入った。
室内の静寂は微かな焼香をまとって私を出迎えた。前の方のやや正面に寄って膝をつき座る。ぽつん と自分の体が空間から浮きながらも溶けこむのを感じた。何もないこちら側の空間は祈りのスペースだ。余白がある。奥の空間のような妖しい照明がない分、朝の日光が窓の桟の外から薄く差し込んでいる。
私は仏教徒ではないけれど、大学のチャペルにいる時よりも自分の血や心が何かを感じ取っている気がする。頭の奥にずっとあった人の顔が思い浮かんで涙が出た。しばらく止まらなかった。祈りの空間。
奇跡的に持っていた紙ナプキンで鼻をかんで本堂を退出する。参拝する人とすれ違い境内を後にした。
参道を自転車を押して帰りながら、最近見た台湾映画のことを思い出していた。家族のそれぞれが部屋に篭り孤独を抱く。四角い小さな個室は個人の心を表象する。それを蹴破り、または静かに退出する人たち。
それは一時的であるかもしれないが確実に救済として描かれていた。