尊敬する人物がいる。尊敬、や憧れという言葉は遠ざけているようで好きじゃないけれど顔を見ると安心するような、安心よりもっと幸福な感情が起こる相手が身近にいる。
あまりにその人物の近くに行きたくなった時期があって、寄せては返す波に、からまる海藻に、足をとられた季節があった。去年の夏頃だった。
夏の野の 繁みに咲けるひめゆりの
知らえぬ恋は 苦しきものそ
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ
海人の小舟の 綱手かなしも
余りに有名な歌だ。鎌倉右大臣という名で歌集に載っているくらいだから、これは鎌倉の海だろう。穏やかな波が足を洗う情景が浮かぶ。
しかし、実朝にはもう一つ有名な海の歌がある。
大海の 磯も轟(とどろ)に寄する波
割れて 砕けて 裂けて 散るかも
激しい歌だ。荒れた海の黒い色が鮮やかに胸に迫る。こんなに激しい歌を詠んだ人が、どうしてあんなに穏やかな歌をも詠めるのだろうかと思う。
“常にもがもな”というのは願望だ。もがも、は願望の終助詞。
常であってほしい、とは悠久の平和を祈る心だ。わたしはとても好きだ。
その時実朝の話をしたのには理由がある。その人は、というのはわたしが尊敬する人物のことだが、海に生きている人なのだ。
塩辛い海風は髪をすいていく。海は大きくて、広い。優しくて、荒々しい。様相を変える空の色を写し取る。
人間は海から生まれて海に育まれてきたのだと、遠い記憶が言った。