朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

猫の足跡

 

5pm 新宿

東京で一番忙しい駅の小さなお店でエーデルピルスとレバーを注文し、これを書いている。いつも最後の一席が見つかる。

昨日まで二日と一晩(厳密にいうなら丸二日) 好きな子と一緒に居た。私のゴールデンウィークの最たるゴールデン部分だったと思う。例のごとくこれは備忘録だ。

 

10pm 西船橋

少し退屈で面倒なそれでもそれなりに楽しい職場の飲み会を一番に抜けて駅に向かう。遠い千葉の何でもない町まで、ただ私に会うためだけに電車を乗り継いで来る人がもうすぐ到着する。

顔を見て安心し、冷たい手のひらを押し付けるように手を繋ぐ。薄いスーツとストッキングを通して春の夜気が肌を包んでいる。金曜日だったので不安だったけれどカラオケ店にまだ空室はあるみたいだった。

つまらないと知っている飲み会のスターターにビールは選ばない。熱燗をひとりで何本かあけたのでフワフワした気持ちでだんだん眠くなる。私がいつもより曲を入れるペースが遅いので仕方なく代わりに歌う人の声を聴きながら帰りたくないなぁと思う。

終電を逃すと決めて部屋を出る。支払いを済ませ場所を移すと千葉のホテルは都心よりずいぶんと良心的な価格で驚く。上海で買ったお土産の煙草を貰いながら部屋が空くのを待つ。

平日の疲労はしかし甘い囁きで私を夢へと誘い、入室して15分と経たず眠りに引き込まれた。

かわいそうな恋人は翌朝、いつもよりさらに眠たげな表情で柔らか青豆の温サラダをつついていた。彼はこれからアルバイトのシフトが入っている。別れたあと私は同期に半日遅れて家路につき、仮眠をとる。

 

6pm 神保町

二度寝から目覚め、慌てて身支度をして電車に乗る。約束の時間ぴったりに到着し、地上で合流してカレーハウスに向かう。調べておいた店がたまたま恋人の行きたいリストに入っていたらしくニコニコしながらラッシーとカレーを待つ。サービスの小さな蒸し芋がうれしくてまた行きたいと思った。

彼の先輩が出演する大学演劇は期待以上の完成度だった。俳優の演技も舞台美術の細部まで行き届いていて、始終目が離せなかった。隣の横顔も真剣だった。名作「ロミオとジュリエット」のプロットは英文科卒の身であるためよく知っていたけれど、アレンジのエピローグが慈愛と祈りに満ちていて素晴らしかった。悲恋を悲恋と呼ばない優しさに救われる心地がした。

余韻に浸りながら夜道を歩く。先輩にご挨拶していただき写真にまで映らせてもらって少しくすぐったい。夕飯は済んでいたけれど熱の醒めない中、お酒が飲みたくて雰囲気のいい大衆ビストロへ入る。お互いに少し奮発してビーフをオーダーした。冷えた日本酒はワイングラスで飲むと美味しい。

 

11pm 神田

それぞれ外泊の連絡を親に入れて地下鉄で移動する。目に入ったビジネスホテルはラスト一室の幸運で旅行みたいで、お揃いの寝巻きにはしゃぐ恋人がかわいい。大浴場が空いてるのもよかった。

前夜は私が先に寝たけれど、その日はさすがにほとんど徹夜の恋人が睡魔に抗えず墜ちた。寝息を紡ぐ前の唇が「人生で一番大切」という言葉を零して不覚にも、実に不覚にも声を失った。

 

こういうふうに人を好きになることができるなんて思ってもみなかった。この先の景色は私の立っている場所からはまだ見えない。でも今の位置から見える眺めはきっと何物と比べようもなく美しい。

気持ちのログ

 

 

好きな子のことをどういう風に好きか、どうやって好きが始まったかを覚えておきたい。

 

二月には小さな友達として好きだった。はじめましてをした時の遠慮がちな感じとか人馴れしていない不器用さ、控えめな素直さが好ましかった。徐々に懐かれるくすぐったさがあった。

三月には変わっていた。近づいて親しくなってお互いの顔を見て話すことができるようになった。わたしは人の目を見て話すことが苦手だ。照れてしまうから。その子の視線が固定されはじめてどぎまぎした。

四月にはもう恋人としてお付き合いしていくのだ、という空気があって、それは安心のもとでも不安のもとでもあるのだけど、とにかくわたしたちの関係にはひとつの名前がついてしまった。そこだけを切り取ると今は都合が良くても、いつか不都合が出てくるのでは、とおそろしい。臆病になった。

最適な関係性をアップデートできたらいいなぁ。この話はきっと伝わらない。

短い

 

記録せねばならないと思う。記録すべきことは今のところあり、そういう時期にかぎって心を忘れそうなほど目まぐるしく時の奔流の中にいる。

 

わたしと今の恋人はお互いに二番目のパートナーだ。時系列的に。

前付き合っていた相手とは言葉と距離と生活のギャップが埋まらなくなって別れてしまった。すべて避けようのないものだ。捨てるわけにも無くすわけにもいかない持ちもの。

 

時間について考える。

わたしの時間は今、はたしてわたしのものだろうか?

 

a cat

 

 

捨て猫を拾ったのだった。

 

ある夜、姿のない鳴き声を耳にして見渡したところ、どうやら家の裏の公園の茂みの何処かに野良猫が一匹いるようだった。

この安普請のアパートにはもう四年暮らしているが、あまり猫の馴染まない土地なのか姿を見かけたことは一度もなかった。

祖母が生前、トラという三毛猫を飼っていたが彼女が祖父のあとを追うように眠りにつき、幸運にもすぐに現れた里親が猫を引き取ってからは、人生に三角耳の生き物が登場することはほぼ無いまま先月、24度目の誕生日を迎えた。

自身もあまり実家には寄り付かないタイプで大学進学後、眩しい都会の表通りから一本逸れたような路地裏で耳をすませ、しなやかに人の手を逃れ細々と生活をしてきたために、猫という生き物は比較的好ましく感じていた。

 

よってその声を聴いた夜にとった反応は、つっかけで自室を出て近所の夕餉の匂いがほのかに漂う、さほど広くない公園の茂みをひとつひとつ覗いてみるというやや子供じみた事だった。職場の繁忙期を終え、弛緩した日々のリズムに身を委ねている。顔をあげると晩春の風を頰に感じた。

 

チリン。小さな鈴の音がする。身じろぎをしたらしい相手の居所をまだ掴めないまま、家族と電話の約束をしていたことを思い出す。広場を後にして、その夜眠る時には猫のことは忘れていた。

 

 

お互いの姿を確認したのはその二日ほど経った夕方の事だった。金曜日、同期の飲み会をやんわりと断ってレンタルビデオショップで古い映画を借り、スーパーで適当な食べものとお酒を買って自室に戻る道すがら、何とは無しに公園の前を横切っていたら歩道に飛び出してきたのだった。

黒い背なかに白い四肢。まだ大人になりきっていない小動物の、しかし獣の知覚を備えた目とぶつかって双方動きを止める。

しゃがみ込んで視線を合わせると、意外にも相手から間隔を詰めてきたので手を伸ばす。掌を嗅がれながら距離感を分かりかねていたところ、反対の手で持っていたビニール袋に顔を近づけてきたので、開けてやると鳴かれた。

袋にはカニカマが入っていたがはたして餌付けしていいものか考えあぐねていると頭を脚に擦り付けてきたので、もとは家猫であったのだろうと合点する。そもそも先日声を聴いた猫とはかぎらないなと思いつつも、昔抱いた三毛猫にそうしたように手の甲で輪郭を撫でながら胸に抱き上げる。

逃げられるかなと思ったけれど腕の中で猫は静かにしていたので、いつでも離せるようにしながら正面玄関を避けてアパートに帰った。

 

さて、いざ部屋に連れ帰ってみるととんでもないものを拾ってしまったと実感する。入居時にはペット可と説明を受けたものの、子猫一匹が満足できるスペースや設備はうちにない。かといってお招きした身としてはそのまま回れ右をして追い出すのも違う気がして猫を抱いたままキッチンの水切りかごからスープ皿を取り出してシンクで水を容れる。水道の蛇口をひねった時に猫は顔を動かしたが飛び出していくことはしないでおとなしいままだった。床にスープ皿を置き、その手前に下ろすとお尻を向けて飲みはじめる。もしかしたらろくに食事もしていなかったのだろうか。

顔を上げる様子がないので、週末まとめて捨てる予定のポリ袋から古くなったブランケットを取り出してくる。幸い明日は仕事がないので様子を見てみようと思う。

猫は、何を考えているのかわからない顔で、美しい毛並みを自分の舌で上手にととのえていた。

 

 

 

ここにある身体だけがほんとう

 

 

大学を卒業し2週間、企業に勤めるようになってから丸10日経過した。交叉路に出たという感覚がある。

私が学生のときに大事にしていたものは、かいつまむと尊厳と尊重であった気がする。人間としての尊厳だけが内にあり、同じように目の前の相手の知ることのない内側を尊重することで、不干渉の線引きを守ってきた。もちろん最初からずっとできていたわけではなく、ボーダーを超えて警鐘を鳴らされることが何度もあり身に付けた術だが、できていたことができなくなりそうな予感がしている。

優先順位の一番上が自分の身体ではなくなってしまったという感覚はもうずっとある。金曜日に配属が決まってからはもっと強くそう感じる。〜としての という枕詞がどこにでも付いて回る。私は私のままなのに。

出自も性も私の選んだものではなく、しかし所属は縁や運に導かれながら自らの手で取ったものであるがゆえ否応なしに名前より先に立つカテゴリー、それを、掌で触れられるほど側に見ている。

透明な容器に入れられたみたいだ。息苦しい。

みっつの幸せ

 

 

こんばんは。昨日は新しい門出の日でした。   えらい人のお話にあったことをちょっとメモしておきたい。

 

幸せには三種類、授かる幸せ 自由の幸せ 与える幸せとあるらしい。人生のお話でも生活のお話でもあったけれど、的を射ていると思った。

今一番大事な人といるとき、わたしは幸せを授かり、行きたい場所へ行ける幸せを感じ、それらを鏡の反射のように相手の方に向けている気持ちでいる。

 

誰かに19歳なんてまだ子どもじゃないのと言われ、多分本人よりも私の方が遅効的に傷ついたのだけど、恋にルールはなかったはずだ。   仮にもし相手が子どもであるなら、与える幸せを噛み締め、育てることができる/連れて行くことができる幸せを祝福と思おう。

誰かを大事に思う気持ちにレッテルを貼らないことがこれからの私の信念になるだろう。       待ち合わせは優しい場所で。

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私が私として機能しているうちに私を好きになってくれる人がいて良かった。

私の優しさは私のためのものだから、優しすぎる人といてはいけない。

どうにも涙が出てダメだなぁ、別れの多い季節を言い訳にさせてね。もう会えないであろう人たちとまた会えるだろう人たちの狭間でいつもみたいに笑って「またね」と言いたい。

変わらないでいるためには終わりにするしかない、綺麗なままでバイバイしようね。そんなこと言ったら納得してもらえなさそうだから嘘を混ぜて曖昧なまま渡した言葉たちをいつかちゃんと捨ててください。そうしたらまた始めることができるので。

一度出会ったものたちはお互いを失うことがない。そんな呪いは存在しない。わたしたちは出会い、別れ、また出会う。

その日まで、満月のような清々しい光の差す場所にいてくれたらと願う。