朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

memory device

 

 

ロングスリーパーの私が3時間しか眠らないで一日好調に過ごせるわけがないのだが、目が冴えてしまったので仕方がない。ベッドで仰向けになってこれを書いている。

 

文学部のくせに遅読家なので年始に読み始めた本を未だちまちまと読んでいる。江國香織の雨はコーラが飲めないという短いエッセイで、実在する飼い犬と好きな音楽の話が淡々と小説のように語られている。江國香織の小説がどれも似通ってエッセイのような顔をしているからなのかもしれないけど、半分ほど読んでようやくこの本がエッセイという事に気付いた。語り手が喫煙者の女性であることに意外な感じがしたからだ。彼女の小説に出てくる主人公は煙草を吸わない。江國香織は煙草の匂いのしない作家だったので(そもそも喫煙のイメージがある物書きは殆ど知らない)、新しい発見だった。私は13章と14章が気に入ったので少し引用する。

 

好きなアルバムというのは、ずーっと、あるいは折にふれて聴き続け、たいてい自分の「定番」になる。しかし、稀に、定番にならずにしまい込まれるものがあり、そういうものは、聴くと瞬時に特定の時期およびその日々の状況、聴いていた部屋の様子まで浮かんできてしまう

 

現在はもうCDをアルバムで聴くことはなくなってしまったけれど、高校生くらいまでは TSUTAYAでレンタルした好きなアーティストのアルバムをたくさんウォークマンに入れていた。女子校で流行るのはアイドルの歌ばかりだったから大半はすぐに聴き古してしまったものの、BUMP OF CHICKENの曲はずっと好きだった。私のお気に入りのアルバムは初めて自分で買ったjupiterとorbital period。jupiter収録のダイアモンドを聴いていると通学中の満員電車から眺めていた川の景色と瞼を赤く透かす朝陽を思い出すし、最近掃除中に発掘した当時のウォークマンorbital periodを流していたら新しいベッドが届いて寝て過ごした高校一年生の終わりの春休みが蘇った。

 

音楽に限らずだけど、私はかつて私が好きだったものたちの集積だと思うとすごい。新品のウォークマンに年月をかけて書き込まれ、上書きされた音楽データのように私という人物は例えば一人の塾の先生とか、はたまた旅行先で言葉を交わした誰かの存在により完成されていく。それが、小学生の頃に流行ったプロフィール手帳のように相互的贈与であればいいと願ってしまうのは欲深いだろうか。