朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

動物の勘

 

 

メモ書き程度ですが、先週から色々あり忙しなく日常に追われる中、後で思い出せるように残しておきたいと思ったことを記録します。

 

 

 

遠くに住む父方の祖母が倒れました。延命のための緊急手術が施されましたが、意識はもう戻る見込みはないとのことです。母が電車と飛行機とタクシーを乗り継いで病院に駆けつけ、一週間ほど付きっきりでさまざまな事柄を丁重に取り決めてきたそうです。

手術をするか、しないか、を決めたのは祖父ですが決断を下した時はたいそう気が動転していて、職場から向かってきている父をせめて死に目には合わせるためと思い、祖母が以前話していた「いざという時の希望」を結果的に叶えることができなくなってしまったそうです。それは少し悲しいことかもしれません。

 

命には誰も見ることができない期限が刻まれています。古いものの期限がそのうち切れてしまうことは仕方がない。期限が切れて遺棄されたとして命が存在しなかったことにはならない。

そうだと思います。でも、肉親の死には論理では語れぬほどの価値観が介入します。愛と時間がかけられた対象、またはそうでなくとも自分の中の血と記憶が勝手に共鳴を始めるためです。

 

わたしは祖母に対して別段に愛や時間をかけられた、またはかけた存在ではありません。地理的に離れた土地に生き、デジタル環境もあまり整っていなかったため、定期的に連絡を取る習慣もありませんでした。それは見る角度によっては善くないことかもしれませんが、距離があれば人の心は基本的に遠いのですから仕方のないこととも言えます。取るに足りないままならさ。

わたしにとってはそういう存在でも、わたしの父や祖父にとって、祖母の近くに暮らすいとこにとって、かけがえのない存在であった祖母の仮死はわたしの家族に何かを伝播しました。瞬時に、そして次第に。

わたしが今ここに書いていることは最初の衝撃から丸一週間が経過した後の所感です。

 

 

最後に。

 

 

10日ほど前に薔薇を見た庭園を去る間際、土産物屋を覗きました。軽い気持ちでしたが、花びらをあしらった和菓子や洋菓子を見ていたらなんとなく遠方に住む疎遠の祖母のことを思い出し、父に頼んで届けてもらおうと思ってローズラスクを買いました。

祖母は昔からガーデニングが、脚の不自由になったあとは水彩画が趣味の人です。

たまに届く花の絵葉書はわたし宛てのものが何枚も何枚も部屋にあります。なかなか返事を書くことができず、孝行ができなかったな。

 

祖母が倒れた日、しっかりと壁に固定されているはずのカレンダーが床に落ちたそうです。今まで落ちたことのないものが その日を選び落ちたこと、また別のウィークリーカレンダーの詩が「空への伝言よろしくね」であったこと。祖母が倒れる前日、祖父に手作りの料理を食べたいと言ったこと。わたしのお土産。

何か意味があったのでしょうか。分からないです。

 

 

 

今日はここまでにします。

備忘録ですが、読んでくれた人はありがとう。