朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

備忘録

 

 

覚えておこうと思った甘いグレープフルーツの銘柄、勧められたジャズミュージシャン、駅の本屋で立ち読みした詩の一節。記憶する間もないまま脳の奥で溶けてしまう。

感情には賞味期限がある。一番瑞々しい時期を逃さずに文章にしたいと思う。

 

 

 

 

 


叔母が死んだ。末期癌だった。10月8日の日曜の夜。

毎週末、母方の祖父母の店で手伝いをしている私がその通知を受けたのは幸いにも、仕事を早めに上がった後だった。日暮里駅の女子トイレの鏡台前で赤いグロスを塗り直していたら、父親がいない方の家族連絡用グループチャットに母親から連絡が入った。
叔母が危篤だというのはわかっていた。少なくとも3ヶ月前には知らされていた。留学から帰ってきてわりとすぐのことだったから、なかなか正確な時系列のはずだ。その時はどうしてもう少し早く教えてもらえなかったのだろう、と少し仲間はずれみたいな気持ちでいた。


ところでわたしは叔母の死の気配を初めて感じとった時、永遠のさよならが来る日には、できることなら家族の前に居ることを避けようと思った。身内同士のみが共有できる喪失のコンテクストの中に身を置いていたくない。

人前で泣くのは嫌いなのに、一度叔母の入院している施設に行った時、私はどうすることもできずボロボロと涙を零した。身内が死去するという時になって、自分が舞台の上に立っていると認識する事を自分に許してはならないと感じた。

 

その夜、私は前のバイト先でよくしてもらった先輩達が大宮で飲んでいるので混ぜてもらってくると嘘を吐き、学部の男友達に声をかけて日暮里で落ち合う約束をした。
21時。日暮里駅はJRと私鉄が交差し、成田空港に向かう電車も出ていることもあり常に混雑している。人が忙しく行き交う改札脇の小さな本屋を覗くと友達の姿があった。

晴れていれば陽光が十二分に差し込むであろう白く清潔な特別病棟の病室の真ん中に位置するベッドの上に、叔母は横たわっていた。留学出発前の春、旅行ついでに一泊させてもらった時には微塵も感じさせなかった疲労と倦怠の表情が、時折天井を見やる土気色の顔に張り付いていた。

祖父母を失くすよりも前に叔母を失くす人は世の中にどれくらいいるのだろう。もしかしたらわたしが思っているよりもずっと多いのかも知れない。けど、順番というのが目に見えるのなら彼女は随分多くの人を抜かしていった。

友達がお酒に強いとは知らなかった。サシどころかグループでも飲みに行った事はなかった。アホみたいにパカパカとグラスを空ける大して親しくもない女を呆れた目で見ることもなく、ペースを合わせながら隣に居てくれた。
気付いたらもう終電の時間だったので店を出ると、男はコンビニに行って来るというので道路脇のガードレールに腰を下ろし足をブラブラさせていた。薄くて柔らかい生地のパンプスが脱げて1メートル先に落ちる。動くのがだるくて、ぼんやりベージュ色の抜け殻を見つめる。

叔母と二人で写っている写真にお気に入りのものがある。わたしは生まれつき写真写りが悪くて、たまにマシなものが撮れるとそればかり何度も見返すので、フレーム内にいる人たちの顔も一緒に記憶される。その写真は去年、香川県のお寺の敷地内にある讃岐うどん屋さんでいとこが撮ってくれたものだ。大学の友達と愛媛に一泊した後、鈍行列車に揺られて一人香川入りしたわたしを迎えに来てくれた叔母といとこは、久し振りに会うわたしを温かくもてなしてくれた。後から父も合流した。


離れて暮らしていると、基本的に心は遠い。現にわたしと妹には、健在な祖父母が二組揃っているものの、東京に住む母方は家族という認識でありながら、四国に暮らす父方をよそ行きの親戚というように捉えている感が否めない。父自身、東京に住むわたしたちとは離れて暮らす単身赴任者だ。

ペットボトルの水が差し出される。友達はいつのまにかファミリーマートから出てきて、わたしの前に立っていた。あの入店音が聞こえなかったからわたしの聴覚は死んでいるのだと思った。片足立ちして靴のところまで行く。新宿に行きたい。急に思った。あのネオンと音と雑踏の渦の中に溶けることができたら自分で自分を忘れられる気がする。

 

 

まだまだ若いなんて一体誰にそんな権利があって言えるのだろう?不自由でない体を持っていたとして、それは自由ではない。自由の反対が不自由なのではなく、不自由でないの反対が不自由に過ぎないのだ。そう思うわたしはきっといつまでも自由になれない。