朝のコインランドリー

洗うものは山ほどあるんだけど

 

 

チャンスだと思うのでブログを書いてみる。

 

今日は半日缶詰で講義を受けてきた。ひとりの人間から言葉のシャワーを浴びるのが一番思考のリハビリになる、やはり。

論理を展開する男性の話に集中し、たまに眠気に襲われながらも内容についていけば、発語とは何だったかを思い出す。

否、学生の私が目覚めたのだろうか。期待もあるが、自信はない。

現にこの文章は思う方向にうまく紡げていない。話し始めてもうまく編めないのだ、文脈を。

だが、やり直すことでしか同質のものを取り戻せないのだと思う。不格好でも書き続けるしかない。無様でも、生き続けるしかない。

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Dear Life

 

共同住宅を扱う仕事をしていると、ごくたまに詩的な響きを持つ建物に出会うことがある。

ディアーライフ。その名前の美しさにしばし手を止める。愛すべき生活。紐付けされたナンバーも意味を帯びて見えてくる。

膨大な数の物件名に目を通し、出力された資料と照らし合わせる作業をしている時に見つけた名前は、過ぎた学生時代に受講した授業を想起させた。

 

生命/生活/人生の讃美歌。浅瀬の水は深みに通じている。

たとえば、仕事は生活の一部でしかないけれど、私自身に関連して流れ込んでくる。その大きな流れに逆らおうとすると溺れる。流れをうまく躱しながら受け容れることの本質に思い当たる。

未熟さを変換していく困難に挫け、その一方で棄てることもできず沈黙を守っていた。自分の中に貯えすぎた水の澱みに当てられ、自身が腐っていくのを茫然と見ていることしかできなかった。

潮目が変わり、住処が動く。次の場所でわたしは呼吸を止めない。

メイクラブ

 

 

昨日はラブホテルに始まり、ラブホテルに終わった一日だった。

 

予定になかったチェックアウトから3時間後、小説を3冊買って新幹線に乗る。1冊は恋人が選んだ。しばらく前、話題になっていたラブホテルが舞台となる物語だ。

就職してからまとまった時間が取れず、細切れのように朝と帰りの電車で単行本を読み繋ぐ日々だ。でもなぜかこの週末はどことなく学生時代の週末のようで不思議な気持ちになる。

小説のタイトルはホテルローヤル。7篇短編に共通する大道具。しかし主題は生活だ。ラブホテルという非日常と対比して浮き彫りになる日常。登場人物たちは生活を強いられている、読んでいて苦しいほどに。

 

最近時々、学生時代に送っていたものは生活と呼ばれる別のものだったのではないかという気がする。

仕事をし、同じ日々を反復していると身体はどこへでも行けるという事実を忘れる。否、どこへでも行けるというのは幻想ではないかという考えもひょっとすると自分の中に根付いて久しい。

 

東京から500km離れた場所へ時速200キロを超えて移動する中、架空のホテルローヤルを想像する。

駅に到着したら社宅に住む友人が神妙な面持ちで待ち構えていて、規定を破り罰則を受けた同期の事例を発表し、わたしたちは23という名前のラブホテルに宿泊することになるのだった。

 

この話に続きはない。

本当の言葉を喋るということ

 

 

必ずしもすべての人にとってそうではないが、彼女の場合、自分で考えた自分の言葉を話すということは、生命そのものよりも大切だ。

そういうわけで言葉とは、神聖にしてごく私的な領域であるため、自分の脳や身体を経由しない言葉を紡ぐ行為は許しがたいことである。彼女曰く。

 

 

 

人の言葉を自分の口で喋る時、たくさん考える時間がほしい。コピーしてペーストする機能は私の身体にはない。翻訳作業の施されない言葉たちはいつまでも他者の知らない言語のままだ。

清書をして、それを読み、身体に覚えこませること。私という白いノートを埋めること。綴り続けること。

祈るように継続すればいつかうまく喋れるだろうか。

 

生活への敗北

 

 

優先順位の一番上がわからなくなるのがこわくて、ひとつのものを諦めることにした。わたしがわたしであるために払った大きな代償は、すでにもう取り返しがつかない。自ら殺す前に心臓は生き絶えていたのかもしれない。いずれにせよ蘇ることはない。

砂時計の砂が落ちきる前に壊して撒いた。美しい砂の煌めきは閉じ込めておくには惜しかった。わたしはわたし以外に何も所有しない。

内側に鳴る心臓

 

 

何かを失っても一ミリも減りたくないという気持ちがある。

 

そんなことは無理に決まっているけれど常に備えていたい。そして私を失って大きく減る存在がいてもやっぱり困る。私は私だけの実存だ。

 

そういう前提の上で覚悟を持って生きたい。生きることは孤独だから。孤独があってこそ寄り添えるのだから。

 

見誤りたくない。